PRESIDENT INTERVIEW
代表インタビュー|恒電社の歩み
- 入社年
- 1992年創業
- 部署
- 代表取締役社長
- 略歴
- 1963年生まれ。高知県出身。株式会社恒電社を創業。2012年から住宅用太陽光発電の販売・施工、翌年には産業用の販売・施工に従事。現在は培ってきた技術力・営業力を総合的に活用し、 エネルギーマネジメント全般まで視野に入れた自家消費型太陽光発電の普及に注力している。
最初は「家電屋」をやりたかった。
―――そもそも電気工事の仕事に就いたきっかけは何だったのでしょうか?
私が電気工事の仕事に就いたのは、高知県の実家で両親が家電店を営んでいたことがきっかけです。
物心ついた頃から、常に新しい家電製品が店に並ぶのを目にしていました。例えばブラウン管のテレビが真空管からトランジスタに変わった時、スイッチを入れてすぐに画面が映るのを見て、家電の進化に驚いたことを覚えています。
また、電子レンジができた頃は、ボタンを押すだけでお湯が沸くのが不思議で仕方ありませんでした。
そういった家電製品を通じて、お客様が喜ぶ姿や感動する姿を間近で見られたことが、この業界で働きたいと思ったきっかけだったと思います。
幸いなことに高知県で少し名の知れた進学校に通えていたので、大学に進学することも考えましたが、後ほどお話しする家庭の事情で断念せざるを得ませんでした。
高校を卒業し、20歳の時には、家電の修理などを学ぶために東京の某家電店に就職し、修理や家電販売、電気工事など幅広い業務を経験しました。
当時から目の前のお客様に商品を提案し、喜んでいただけることにとてもやりがいを感じていましたね。
その後、その家電屋が時代に合わせて電気工事業を始めたこともあり、家電の範囲を超えて、住宅の電気工事にも従事するようになりました。
―――その後、独立を決意した理由なんでしょうか?
独立を決意した理由はいくつかあります。
一つ目は、実家の家電屋が倒産してしまったことです。
実は、私が家電店に勤めていた頃からすでに実家は多額の借金を抱えており、その後、実家の家電店は倒産してしまいました。元々数年間修行をしてから実家に戻るつもりでしたが、強制的にその選択肢がなくなってしまったんです。
また、実家が抱えていた多額の借金を私が返済する必要がありました。
当時は手取りの給与が15万円ほどで、そこから幾分かを借金の返済に回すと手元にお金はほとんど残りません。毎月の給与のほとんどを仕送りに回していましたが、金利でさえ返済しきれない状況でしたね。このままでは何も先が見えないと思っていました。
そんな中、独立して活躍している職人の姿を間近で見たんです。
バブル全盛期でしたので、大工さんや内装屋さんの中には、一人親方で月に150万円以上稼いでいる人もいました。「技術と営業力があって、自分で仕事を取ることができれば、もっとお金が稼げる」と知り、独立への憧れを抱くようになりました。
その後、独立の意志を当時の社長に伝えると、将来は社長になってほしいと思っていたようで、猛反対されました。
それでも「独立するしかない」と決めたので、その家電店とは商圏がぶつからず、生活コストも低かった、埼玉県蓮田市に拠点を移すことにしたんです。
創業期:創業したは良いが、仕事もお金もない。
―――創業後は順調に仕事を得ることができたのでしょうか?
「創業してすぐに成功しました!」というカッコいい話をしたかったのですが、残念ながら真逆。(笑)
創業間もない頃は、仕事も無い、もちろんお金も無いという状況でした。体力と技術には自信があったけど、仕事をどうやって取れば良いのか分からなかったんです。
もちろん埼玉県には知り合いが誰一人いなかったので、すぐに仕事を紹介してもらえる訳でもなく、ゼロから顧客開拓をする必要がありました。
当時は携帯電話もない時代だったので、毎日タウンページを見ながら電気工事店に電話をかけて、「何か下請けとしてお仕事を貰えないでしょうか?」とお願いして回ったものです。
独立前から仲良くしていた大工さんから電気工事会社を紹介してもらい、その下請けとして仕事を請け負ったりしていましたが、その電気工事会社自身も元請けから手形で支払いを受けるため、キャッシュフローが回らず、私への支払いも滞りがちでした。
工事の材料費は私が個人で先払いする。なのに仕事の対価がしばらく入ってこない。
仕事をすればするほどお金がなくなっていくという苦しいジレンマに陥りました。
お金がない時は、出稼ぎにいった現場の近くで車で寝泊まりすることもありましたね。当時の社用車は、エアコンが壊れていて真夏は窓を全開にしてヒーターを回すというような状態でした。(笑)外国人の若い職人たちと一緒に現場の掘っ立て小屋に泊まったこともありました。
とにかく一生懸命に働いた時期だったなと思い出しますね。振り返ってみると、あの時は苦しかったけど、なぜか根拠のない自信があったので、希望を持って頑張れました。
あと、結婚する前に妻に「必ず独立して成功してみせる!」と言って埼玉県に連れてきていたので、簡単に諦めるわけにはいきませんでした。(笑)
大手ハウスメーカーとの出会いと飛躍
―――そこから事業が安定しはじめたきっかけを教えてください。
事業が安定した転機となったのは、埼玉県蓮田市の事務所の周りを散歩していた時に、大手ハウスメーカーの施工現場をたまたま見つけたことです。
前職では、そのハウスメーカーの現場にも携わっていたので、「なつかしいなー」と現場を眺めていると、現場監督の方が声をかけてくださいました。
家電店時代、そのハウスメーカーにお世話になったと、その監督に伝えると、私が前職の頃にお世話になっていたAさんが、なんと埼玉支店に転勤していることを教えてもらったのです。
これは奇跡的な巡り合わせだと思いました。
すぐにAさんに連絡を取り、お会いする機会を得ることができました。当時、私は個人事業主でしたので、法人化すれば仕事を発注できると提案してくださいました。
そこで現在の恒電社の前身である「有限会社 恒電社」を設立して、大手ハウスメーカーの下請け業者として電気工事を請け負うことになったのです。
―――とはいえ、いきなり多くの仕事を発注してもらえたのでしょうか?
いいえ。当初は、埼玉支店の年間100棟の直施工物件のうち、わずか10棟程度の受注でした。
他にも5社ほどの電気工事業者がいたため、後発の恒電社が受注シェアを高めるためには、明確な差別化ポイントが必要だったのです。
―――請負棟数を増やすために、どのような営業努力を行ったのでしょうか?
当時の建設業界では、住宅メーカーなどの元請け企業に対して、ゴルフや飲み会などの接待を行い、気に入ってもらうことで仕事を受注したり、融通を利かせてもらうことが多かったのが事実です。
つまり、住宅メーカーの担当者が変わるたびに、毎回この接待を繰り返す必要があった。この方法は本質的でないし、なによりそうやって仕事を得ても、自分自身がまったく楽しくないと思いました。
なので、こうした慣習には頼らず、真正面から価値を提供して評価してもらう「正々堂々」の営業スタイルを貫くことを決意。
この時の成功体験が、今の恒電社の「正々堂々」という価値観につながっていると思います。
―――具体的に行った営業活動の例を教えていただけますか?
まずは、現場監督の業務負担を軽減することに注力しました。
ハウスメーカーの現場監督は、ひとりで複数物件を担当していたため、案件ごとの細かな管理にとても苦労していました。であれば、忙しい現場監督自らが現場に行かずとも、常に現場の進捗状況を正確に把握できることが彼らにとって大きな価値になると思ったのです。
具体的には、現場に着いたらまず監督に連絡を入れ、その日の作業内容を詳細に報告するようにしました。また大工や設備業者とも頻繁に連絡を取り合い、工程に遅れが出ないように“電気工事以外”の現場の状況も報告していましたね。
現場で問題が発生した際は、監督に依頼される前に自ら解決策を提示するようにしていました。例えば、コンセントの位置が設計と齟齬があることが発覚した際は、私から大工に連絡を取り、再度墨出しを行ってもらうなどの対応も行いましたね。
細かいですが、こういった一つ一つの積み重ねによって、現場監督の方々から「恒石さんに任せておけば現場は安心」という一定の信頼を得ることができたのだと思います。
―――その後、取引をさらに拡大するために取り組んだことはありますでしょうか?
「そこまでやってくれる電気工事屋がいるのか!」という噂が、徐々にハウスメーカーの埼玉支店内で広まったこともあって、その後はありがたいことに現場監督の方々から頼っていただけることが増えたと自負しています。
だが、それでは満足できなかった。
私は元々家電店出身です。やはりエンドユーザーであるお客様により近い立場で仕事がしたいと考えていました。
そこで、次に目を付けたのが「設計」の領域です。
住宅は、エンドユーザー様と住宅メーカー間の打ち合わせで、ほとんど電気設備の内容が決まってしまいます。そこに、電気設備のプロとして、設計の段階から関与できないか?と考えるようになりました。
さっそく設計担当の方々を紹介してもらい、想いや考えを伝えました。
その後、設計担当者とも綿密に連絡をとり、照明器具の選定や配線ルートの検討など、電気工事の観点からアドバイスを行うことで、お客様の生活に寄り添った品質の高い設計図面の作成をサポートしたんです。
そういった取り組みの甲斐もあり「現場監督」だけでなく「設計」の領域でも評価していただくことが増えてきましたね。
―――目標であった、お客様に近づいた仕事ができたんですね。
そうなんですが、やっぱりまだお客様に直接提案ができていない。
お客様と“直接”お話がしたい。
そういった想いは日に日に強くなりました。
そこで次は、お客様と直接対話ができる「営業」の領域でも関わらせてくれないでしょうか?と依頼をし、商談に同席する機会を貰えたのです。
それ以降、お客様との打ち合わせの際は、できる限り同席させていただき、電気工事の観点からエンドユーザーである“お客様”に直接アドバイスや提案を行うことで受注確度の向上に努めました。
単に電気工事の説明をするだけでなく、ご家族構成に合わせた照明の配置や、省エネ機器の選択肢など、電気工事の枠を超えた“住まいづくり全般”に関する提案を行うことを心掛けていました。
ちなみに、当時の電気工事会社には職人気質の寡黙な職人さんが多かった。彼らは確かに電気工事ができるけど、お客様と直接お話して提案ができる人はほとんどいなかった。
この点が、家電店出身の私と他社との差別化ポイントになったのかなと思っています。
結果的に、お客様からも高い評価をいただき、「電気工事は恒電社さんにお願いがしたい」とお客様から直接指名で工事を依頼されるケースが増えていったのです。
こうした地道な活動を続けた結果、現場監督だけでなく、設計担当者や営業担当、ひいては支店長からも「電気のことなら恒石さんに」と言っていただけるようにもなりました。
お客様(エンドユーザー様)からの直接受注体制へのシフト
―――その後、厳しい状況に直面されたそうですね。
そうなんです。日本全体で新築住宅の新規着工件数が減少し、その大手ハウスメーカーの受注棟数も大きく減少しました。
その影響で、恒電社のような下請け業者に対するコストダウン要求がかなり強まりました。元請けに依存していた当時の私たちにとって、受注単価の引き下げは死活問題。
現場での作業効率を上げるために、電線の加工を工場である程度進めておくことで、現場での作業時間を短縮できるようにしたり、材料の仕入れ先を見直し、より安価で品質の高い材料を使用することで、コストダウンに努めました。
こうした地道なコストダウンの努力と並行して、全館空調システムの受注拡大にも注力。全館空調は、電気工事と比べると利益額が大きかったため、全体の売上に占める全館空調の割合を高めていくことで、利益を確保することができたのです。
コストダウン要求は厳しいものでしたが、なんとか知恵を絞って対応策を考え、厳しい局面はなんとか乗り越えることができました。
ですが、この時に思ったのです。
「二度とこんな想いをしたくない」
同時にこう決心しました。
「恒電社は“元請け”として、お客様から直接対価をいただく企業になる」と。
元請けに依存しない経営への転換を決断した背景には、やはり下請け業者という立場の弱さに対する危機感があったからです。
担当者が代わった際に、それまでの実績がほとんど評価されなかったという経験もあり、非常にショックでした。担当者が変わる度にまた一から、恒電社の魅力を理解してもらうことを繰り返していかないとならない。
あとは下請けの立場では元請けの意向に逆らうことはできませんでした。「やり方に従えないなら仕事は渡せないよ」それだけ。いつ切られてもおかしくない状況です。
こうした状況をうけて「下請けとして、元請けに依存する経営は限界だ」と強く感じるようになりました。
自社の強みを活かせる新しい事業の柱を作らなければ、先細りになることは目に見えていましたし、受け身ではなく、自ら仕事を作っていく経営スタイルへの転換が急務だと考えたのです。
―――そこで、パナソニックのエキスパート工事店制度(当時)を活用されたそうですね。
はい。パナソニックのエキスパート工事店制度へ加盟したことは、のちに直接受注体制の強化していく上で大きく貢献しました。
エキスパート工事店の研修で学んだのは、住宅設備機器や営業ノウハウだけではありません。
お客様の潜在的なニーズを引き出し、それに合わせた提案を行う営業手法も体系的に身に付けることができました。
また、パナソニックの全国の工事店との交流を通じて、情報交換や勉強会への参加など、自社単独では得難い機会を得ることができました。他社の成功事例に学び、自社の営業活動に活かしていったのです。
エキスパート工事店としての活動で得たもう一つの大きな財産は、パナソニックブランドの信用力です。「パナソニックの認定工事店」として営業活動を行うことで、お客様からの信頼を得やすいというメリットがありました。
特に初期の頃は、恒電社の知名度はとても低かったため、信用のない駆け出しの会社にとって、パナソニック社の看板は大きな助けになりましたね。
今でもパナソニックさんには本当に感謝しています。
―――とはいえ直接受注体制を確立できるまでには、様々な課題もあったのではないでしょうか?
「パナソニックの認定工事店」になったからと言って、決して平坦な道のりではありませんでした。
最大の課題は「集客力」でした。
元請けでいるためには、お客様を集客ができないと何も始まらないんです。
どんな良い技術やノウハウを持っていたとしても、お客様にご提案をする機会がないと意味がない。
しかし、長年下請け業者として仕事をしてきた私たちには、集客方法や営業方法が全社的に仕組み化されていませんでした。
地域のお客様にご提案する機会を作ろうと思い、展示会をやったりしましたが、初めのうちは大苦戦。
当たり前ですが、チラシを配ってもなかなか人が集まりません。なんと来場者数が1日2組という日もありました。(笑)
せっかく事前準備しても1日2組だと、メンバーのモチベーションを保つことも大変でした。
しかし、恒電社は「元請け」としてお客様から直接感謝してもらい、対価をいただく企業になると既に決めました。元請け依存体質の経営に後戻りすることはできない。決めたら突き進むしかない。
そう思い、試行錯誤するなかで、展示会の在り方を抜本的に見直すことにしたのです。
創業以来大切にしてきた「目の前のお客様に喜んでもらいたい」という原点に立ち戻って、「販売する」のではなく「地域に喜んでもらう」ことを重視しました。
具体的には、外に屋台を出してお子様向けのイベントを充実させたり、ご家族連れで楽しんでいただけるような企画しました。
すると、面白いことに徐々に来場者が増えていったのです。
地域で展示会の認知度が上がるにつれ、口コミでの集客も増えていきました。最終的には、1日1,000人を超える来場者を記録するまでになりました。
こうした地道な活動の積み重ねにより、地域での恒電社の知名度は着実に向上していき、ありがたいことに、お客様からの問い合わせも増えはじめ、直接受注の割合が徐々に高まっていったのです。
元請けとしての受注体制の確立までには時間と苦労がありましたが、あの時に挫けず挑戦して良かったと思いますし、その時に私を信じて一生懸命ついてきてくれた社員たちには本当に感謝しています。
この時に培った経験が、2024年の恒電社の「営業力」「提案力」「顧客視点」という強みに確実につながっていますから。
太陽光発電事業への参入
―――時を同じくして、2013年頃から太陽光発電事業への参入を決意されたそうですね。
2011年、東日本大震災の後、日本のエネルギー政策は大きな転換期を迎えていました。
原発への依存度を下げ、再生可能エネルギーの導入を加速させることが急務とされたのです。そういった国の方針転換をきっかけに、そもそも日本の電気がどのように創られているのか、そのルーツを改めて学ぼうと思いました。
私はそれまで、電気は人々の生活を便利で豊かにするものであり、その工事に携わっていることに誇りを持っていました。
社会に貢献できていると。「電気の力は本当にすごい」と誰よりも思っていた。
ただ、勉強すればするほど、自分が扱ってきた電気がそもそもどのように創られているのか?どのように創られるべきなのか?という「電気の創られ方」に対する知識と知見がまだまだ足りてないことに気づいたんです。
生活の中で電気がどのように“使われるべきなのか?”つまり「電気の使われ方」については、これまでたくさん考えてきましたが、「電気の創られ方」まで意識を持てていなかった。
さらに勉強していくと、日本は石炭を燃やしたくさんの二酸化炭素を排出する火力発電に大きく依存していることが分かりました。
「電気を扱い、誇りを持つものとして、このままではいけない!」と気づいた時の気持ちは今でも鮮明に覚えています。
これが「電気の専門家として、“電気の創り方”までしっかりと責任を持って携わろう」と考えたきっかけであり、太陽光発電事業に関わることになったきっかけですね。
実際に太陽光発電の業界に参入してみると、FIT制度の開始により、太陽光発電所の建設ラッシュが各地で起こっていました。
しかし、当時の太陽光発電所の建設は、必ずしも適切に行われているとは言えず、電気に関する知識が十分でない事業者がたくさん参入し、トラブルが多発していたのです。
こういった実情を見て、日本における太陽光発電所の健全な普及には、電気工事のプロとしての関わりが不可欠だと心底思いましたね。適切な設計と施工、メンテナンスがあってこそ、太陽光発電は長期に渡って安定的に発電することができますから。
参入に当たっては、情報収集と人脈作りにも注力しました。全国の電気工事店向けの勉強会に参加し、太陽光発電の施工ノウハウを一所懸命学びましたし、金融機関や不動産会社など、太陽光発電事業に関わる様々な企業とのネットワークも築いていきました。
こうした地道な活動が、後の事業展開の基盤になったと感じています。
―――自社およびグループ会社での発電所開発の経緯についてお聞かせください。
太陽光発電事業への参入当初は、お客様の発電所の施工を請け負うことが中心でした。
ですが、その後次第に自社での発電所開発も行うようになりました。きっかけは、太陽光発電所の施工を通じて知り合った経営者の方からの提案です。
彼からは「せっかく自社に施工力とメンテナンス力があるのだから、恒電社で太陽光発電所を開発・所有して、自ら再エネを創っていくのが良いのでは?」とアドバイスいただいたのです。
信頼のおける企業とともに、共同で発電所開発を行う子会社を設立し、北海道美唄市で9.8MWのメガソーラーを開発するなど、大規模案件にも挑戦していきました。
グループ会社での発電所開発は、その後も順調に拡大していき、今ではグループ全体で40MW以上の発電所を保有するまでに成長しました。
開発から施工、運営、メンテナンスまでを一貫して手がけることできる。こうした強みを活かし、太陽光発電事業を大きく伸ばしていくことができましたね。
―――その後の「自家消費型太陽光発電」への事業展開についても教えてください。
日本の太陽光発電業界は、2012年に施行されたFIT制度のもと発展してきました。
そのFIT制度の買取価格が年々低減しているのと同時に、ロシア・ウクライナ戦争などの理由によって買電価格の高騰していることを背景に、発電した電力を売電するのではなく、自分たちで消費する「自家消費型」の太陽光発電システムへの需要が高まりました。
これに伴って、従来のFIT制度を前提とした野立ての発電所から、工場などの屋根上などに太陽光パネルを載せる発電システムへとシフトしていったのです。
自家消費型太陽光発電設備のご提案と施工には、「受変電設備」「発電設備」双方の電気的知識が必要になるのに加えて、お客様の電気の使用状況なども詳細に分析する必要があります。
つまり、野立ての太陽光発電の建設と比べて、自家消費型はさらに高度な電気的技術力とノウハウが求められるのです。
こうした事業環境の変化の中で、太陽光発電業界では多くの業者が淘汰されてしまいましたが、恒電社は長年の電気工事の実績とノウハウを活かし、自家消費型の太陽光発電システムの設計・施工に注力することで、この変化をチャンスに変えることができたと考えています。
今後の恒電社
―――これまでのお話ありがとうございます。最後に今後恒電社をどのような会社にしていきたいと考えているかを教えてください。
私自身が子供のころ、テレビのスイッチを入れたら画面がパッとつく事に驚きと感動を覚えたように、ものすごいスピードで時代が変化している今、日本にだけ固執せず、海外の最先端のテクノロジーや考え方を絶えず取り入れ、お客様にこれからも驚きと感動を与え続けられるような会社であり続けたいです。
電気の力で、一人でも多くの人を笑顔にすること。
いつもお客様に寄り添い、信頼される企業・仕事人であり続ける。
それが、創業以来変わらない私の想いであり、恒電社のメンバーが持っている想いだと思っています。
ワクワクするような未来を一緒に創っていく仲間が、たくさん入社してくださることを楽しみにしています。